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み
み
も
と
で
聞
い
て
い
た
音
静
寂
つ
れ
て
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稜線に うばわれてゆく こくこく刻と
<どんな人生にも失われた一日がある>。
そんなことばから始まるみじかい話を読んでいる。
失われた一日とは、<ある日を境に、自分の中でなにかが変わってしまい、もうおなじ自分には後戻りできないとこころが感じてしまう日のことだ>と綴られている。
うしなわれた一日というフレーズに、こころが動く。なにかを得たことよりもなにかをうしなったと感じることのほうが、馴染みやすいせいかもしれないけれど。
街をつぎからつぎへと、歩き回りながら見知った街がまるではじめての街のように感じる物語の中の彼は、あるジャズバーで、お酒を飲みながらマイルズ・デイヴィズのいちまいのレコードを聴く。
そのとき彼は、聴かなければいけない音楽はそれだった
ような気がしてくる。
演奏の描写が、その時のマイルズの音のように短く叩くように表現される。
<彼は何も求めず、何も与えない。そこにはもとめられるべき共感もなく、与えるべき癒しもない。>
いまこうしてキーボードを叩いていると、はじめて読んだ時は、なんて平坦な掌編なんだろうと思っていたのに、あらためていま読むと腑に落ちる。そういうときは、空白をうめるような<攻撃的な純粋な音の「行為」>が最良で唯一の選択だったことに気づく。
その物語の中の男の人は、マイルズの
<'FOUR'&MORE>を聴きながら<身体の中に何の痛みも感じていないことを知>る。
その演奏に耳をかたむけている間は<無感覚でいられる>と。
なにかを失ったと感じるとき、たぶんひとのからだはそのからだのあちこちが、感知器のようになってしまって、その感覚に耐えられない状態に陥るのかもしれない。
うすい皮膚で、するどい鋭利なものに対処しているような。
無感覚であることがわるいことのように云われることも
多いけれど、ひどく傷を負いそうな時は、なにも感じないことが一瞬の救いになることもある。
さいごの一行は、そんな経験をしたのは<ずいぶん昔の話だけれど。>と閉じられる。
フィクションであるのに、彼のむかしむかしの話でよかったともういちど、読者は救われる。
なまみであることのすばらしさと、残酷さ。
そこからはいつも逃れられないことを、なにかにでくわしてから気づくものだけれど、逃れるすべを身につけることも時には大事だなって、思う。
いつかいつの日か<失われた一日>のときのために、デイヴィスのこのいちまいのタイトルは憶えておいても悪くないなって、その曲がまだ見ぬ処方箋のような存在になるような気がしていた。
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