その四〇七

 

 




 







 














































 

雲の淵 おりてゆく銀 ひかりこぼれて

 メキシコのユカタン半島にあるセノーテという泉に太陽の光がまっすぐに射し込んでいる写真をみていた。
 青白い光の帯が貫いている。
 毎年5月と7月の2日間、太陽が天頂を通過するらしく、その時には、泉のなかに垂直に光が届くのだとか。

 どこかから始まってどこかへと辿りつこうとしている光をみていると、なにか通り過ぎることのできない人を立ち止まらせる力があるんだなって思う。

 2年ぐらい前から気になっていた映画をこの間観ていた。
『世界にひとつのプレイブック』。
 主人公の男の人は、歴史(たぶんそうだったと思う)を教えていた学校の先生だったけれど、心のバランスを乱してしまう躁鬱病にかかっている。
 物語の始まりは彼が退院する時、母親が車で迎えに来ているシーンから。
 でもその空気の中には、どんよりとしたものはどこにも
なくて。彼がきっと躁の状態なのかテンションがとびぬけて明るくて、おまけにマシンガンのような口調とふるまいに、観ているこっちは気持ちよく振り回されながら、話がすすんでいく。

 彼を受け入れる、賭博を生業にしている父親とひたすら彼を愛している母親と、そして少しいじわるなお兄さんと。
 彼の目的は入院中に離婚で失った妻をひたすらけなげに
探すことだった。けれど、その目的の途中で、ちょっと悲しい事故で警察官の夫を失ったいかれたはじけた女の子に出会ってしまう。

 はじめは彼と彼女だけが病んでいて、それを静かに見守る家族の話になるのかと思っていたけれど、じっと観ているとほんとうはだれが、くれーじーでだれがまっとうかなんてわからなくなる。そんな、坂道で自転車に乗っているときのような、じゆうな気持ちに包まれる映画だった。
 うまく説明できていないことに不安を憶えるけれどファンタジーのようでいてリアルだったし、そのはざまをなんども気持ちがいったり来たりできる、魅力に満ちていた。

 「人生はいろんな方法で人を傷つける。うまく言えないがだれだってクレージーな部分があるだろう?」
って彼が云う。
 そうそう、この映画のことを綴ろうと思ったらたちまち
ほんとうにうまく云えなくて、びっくりしたけれどこういうことなんだと思う。
 ひとの営みのなかには、うまく言えない部分ってものに
まみれているものなのだと、それが暮らしてゆくってことなんだなって、病を得ている彼らに気づかされる


 冒頭の<光>のことをうっかり忘れそうになっていた。
 この映画の原題は「SILVERLININGS PLAYBOOK」
となっていて、このシルバーリニングスというのは、
<雲のふちから見える光のラインのことで、希望の兆しを
意味する慣用句>らしい。

 人はいつだってなにかの途上にいるんだなってことを思いながら観ていると、そのゆくさきざきで、ちいさな穴から洩れる光のような出来事が、奇跡的に点から線へとつながっていく感じのそんな映画だった。

       
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