その四〇八

 

 






 






 















































 

眠らない 街のどこかで 舞うひとひらは

 「余分な感情を取り去った絵は、<図>へと近づいて行く」。という漫画家の高野文子さんの言葉を読んでいたら、ふと俳句に関わっていた頃のことを思い出した。

 20代のまんなか辺りに1年ぐらい属していた俳句結社
「青玄」。師匠だった伊丹三樹彦先生の師匠日野草城先生の2句と邂逅する。

 <春の夜や檸檬に触るる鼻のさき>
<ものの種にぎればいのちひしめける>   日野草城。

どなたかが、感触の句だとおっしゃっていたけれど、ほんとうに、理屈じゃなくて、からだを感じる句だなと思う。

 鼻や眼や耳、指、舌の先端が捉える感触が、たった17文字の宇宙のなかにひろがってゆく。
 句と対峙したせつな、バーチャルのように酸っぱい匂いと冷たさが鼻の先にふれたように、そして、掌のなかにつつまれたちいさな種のその存在がすでにいのちをはらんでいるような、エネルギーが伝わって来るような気がしてくる。

 はじめて結社に入って作句していた頃は、ただただ思いにまかせて、じっとなにかを観察してというよりは、ほんとうに反射的にことばを転がす面白さにめざめて、駆け抜けるように作ってしまっていたことを苦く思い出す。
 三樹彦先生は、理論はいいからひたすら作りなさい、いまのままでいいんだよ、っていつもおっしゃって下さって
いたので、ずいぶんそのことばに甘えていたんだなって。
 あらためて日野草城先生の句と対峙して、思い起こされた。

 
また、俳句をはじめたいなって思いが募ってきて、すこしずつ俳句のようなものを作りはじめている。
 17文字ではなにもいえないからと、短歌へと移行したけれど、いまは、そこにこめることのできる密度の濃さに、興味を感じてる。
 そがれて、そがれていくと、なにもなくなるのではなくて。
 たったひとつぶ残されたものが、雨粒に映る景色のようにすべてを内包していることもあるんだなって思いながら。

       
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