その四〇九

 

 






 






 














































 

みちしるべ 矢印の向き おととい指して

 『大阪の夜』という評論家・小説家の吉田健一さんの文章と出会った。
 100文字ほどの文章だったけれど、よくみるとそこには、句読点がない。

 道頓堀と御堂筋から千日前へ雑踏の中を歩いている描写が、続くだけなのだけれど、そのことばのひとつひとつのつらなりは、呼吸するように描写されている。
 そこにブレスはなくて、えいえんとつながってゆく。

 わたしもかつて住んでいた大阪の街を思い出しながら読み始める。
 とくに、雑踏は北でもミナミでも大阪らしかったなって
思いながら。
 まだ学生の頃は、うまく雑踏を縫ってゆくことができなくてよく人とぶつかっていた。
 神奈川にあるいま住んでいる街を訪れた時、ここを歩く
人達のリズムはとてもおだやかで、のんびりしているなっておもったことがあった。

 ひたすら雑踏をわけいりながら小走りになったり、歩いていたときのからだや足に感じるリズムが、なつかしい。
 歩く速度は、その時の気持ちや状況や誰といっしょにいるかなどで、変わってゆくものだけれど、もともと持っている独自のリズムみたいなものってあるんだなって思う。

 「雑踏あるくん、はよなったな」って、かつて大阪の友達に言われたことがあった。
「そんなに遅かったっけ?」って聞くと、「たらたらたらたら歩いとったやん」って笑われたことがあった。
 そう、わたしはなにをするにもたらたらたらたらだったなって。
 今も、基本的には変わらないような気がする。。

 
吉田健一さんの<大阪らしい街ってどこだろう>っていうことが綴られている随筆。
 とにかくはじめからおわりまで<人通りに流されている>そのことじしんが、<大阪に来ている感じ>がするといった、その文章の句読点のなさに、惹かれる。

 なんで句読点がないんだろうって思いながら、これは描写されているこの感じを体感するために、かかせない表現方法だったんだなって気づかされる。
 この、息を吐きっぱなしのような途切れのなさは、まるでじぶんが大阪の雑踏のどこかを歩いているようで、どきどきする。

 日々暮らしていると、頭の中はなにかしらなにかを思ったりし続けているし、それがまったく無になる瞬間をじぶんが捉えたことはないんじゃないかと思うと、人の日々って点もピリオドもいらない状態にあるのかもしれない。

 (ちいさな道の横町を右にまがって、通りの店の裏あた りから流れてくる換気扇のこもった匂い立ち止まる猫。 枯れかかった植木鉢まがったように見える電信柱。だれ かこどもだちがアスファルトに描いたチョークの線路。
 それをみながら通りを左に曲がるとむかし散髪屋さんだ ったはずの敷地が空き地になっていた。そこには四角く 綱が張られていてそのその綱の結び目にしぼんだ風船が かたく結ばれている)。

 架空のどこかの道をこしらえてゆくことばの不思議。
 そこには、歩く速さにも似た文章のリズムが顔をのぞかせている。でもそれは身の丈にあった速度しか持てないことを、いま、はじめて知った。

       
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