その四一二

 

 






 





 











































 

さかしまに よみがえる日々 記憶のすきま

 ちいさなころ、遠足の途中で腰掛けられるほどの切り株に年輪があるのをみつけて、あの渦のような線はとてもふしぎだなって思いながらみていたことがあった。
 ねんりん。それは、樹がすこしずつ積み重ねてきた記憶。

 <木材の中に潜むある年の年輪に沿うように木を削り
そこにかつての樹林の姿を詩的に甦らせる>
 ジュゼッペ・ペソーネさんというイタリアの彫刻家の方に話を聞いた方の文章。
 その言葉を書き留めた10月のとある水曜日の手帳の片隅をちらっとみる度に、気になっていた。
 年輪が、培ってきた時間に思いを馳せながら、樹そのものと、対峙して作品と向き合う。

 どんなかたちのものづくりもあっていいし、あると思うけれど、こういう姿勢のアーティストの方のことばと作品に出会うと、ほんとうにせすじがぴしんとなる感じがする。
 彼のことばのなかに、「自然を尊重することは倫理とも
つながる。芸術には、美的・商業的な役割があるわけでは
ありません」

 じぶんだけの倫理観でもって作品をつくることは多いに
あるし、たえず倫理的であることが、求められている場所に、じぶんはいないと思うようなところもあったけれど、
でもあらためて、こういうことばを突きつけられるとじぶんの信じていた世界がぐらりと揺れる感じがしてとても新鮮だった。

 徹じぶんの非力をそのことばに救いを求めたりしてこの
言葉を書き留めたのかもしれないなって思いながら、
10月頃の出来事を思い出そうとしている。
 映画『見えざる敵』を観て、今そこで起こっている問題は少なくとも、'32年頃からの歴史を繙かなければいけないことを知らされたり、
 モンサンミシェルの海嘯、マスカレの自然の成り立ちに、潮の満ち引きの不思議を感じたり、
 赤瀬川源平さんの「強力なコンプレックスが、一方にあると、長所が一つでもあれば、これだけは自分の領分という気持ちになりますね」っていうことばに多いに反応したり。

 
なんだか、脈絡のないことが枝葉となっていたことに不思議になりながら。
 そうやってじぶんが作られて来ることをさっきのジュゼッペさんのはなしにあてはめてみると、ひとのなかにもみえない年輪のようなものが隠されているのかもしれないって思う。
 誰かの2014年はたとえば、じぐざくしたうずまきが
刻まれているかもしれないし、ゆるやかなカーブを描いた
ものだってあるかもしれない。あと点と点のつながりに似たものや。
 人の顔や身体や表にみえているところじゃなくてこころの奥深くにある年輪のようなものが、あなたやだれかの今を形作っている。
 たぶんそれは記憶の道のりのようなものなのかなってゆらりゆらりと思いつつ。

 ことしも、うたたね日記におつきあいくださいましてありがとうございます。どうぞ、来年もよろしくお願い致します。
 のこりすくない2014年が、みなさまにとってあたたかく幸せでありますように。、にわかに絡まりながら。

                    もりまりこ

       
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