空席の 季節のなかに つつまれてゆく
あんなに雨ばっかりだったのに、ふいにあたたかくなると、庭のいろんな植物たちが芽吹いて、季節はちゃんと前に進んでいるんだなって気づく。
緑はすくすくと、ぶかぶかの制服を着た幼稚園生が、嵐のような風のせいで、道端に落ちた桜の枝を拾って、見上げてる。
つかんだものへの驚きを伝えようと、見上げた視線をそばにいるおとなに預けて。
季節を超えてしまった、コートを洗う。
薄いグレーのウールのそのコートは、もうずいぶん昔に、祖母がいちどだけ袖をとおしただけのものだった。
背の高さも体型もどちらかというと似ていたので祖母が
亡くなった時、20年以上も前に形見分けしてもらったものだった。
はじめてこの冬に袖を通した時、とくべつあたたかいものに触れている感覚があった。
いつも厳しい祖母だったので、抱きしめてもらったり頭をなでられたりしたことはないけれど。
このコートのどこかにそういう力が潜んでいるみたいに、体をつつんでくれた。
なにかにつつまれているって、こんなにも安心感ががあるんだなって思って、ちょっとハードルの高そうな場所に挑まなければいけないときなど、いやそれ以外の日にも、好んで着た。
大切だったひとの体が触れたもののエネルギーのようなものをその時はじめて感じたのかもしれない。
週末の真夜中に、「25年目の弦楽四重奏」という映画を観ていて、エリオットがこのタイトルと同じくベートーベンの曲について謳った詩に出会う。
<現在の”時“も過去の”時“もおそらく未来の”時“の
中にある。そして未来の“時”は、過去の中にある。あら
ゆる“時”があるならいかなる“時”も償えない。>と続いて、さいごに<すべては、今、存在する>と。
映画の中バイオリン。たちまち消えてゆく音に耳を奪われながら、秒の束が降り注ぐことを感じて、ふとハンガーに吊るされた乾いた祖母のコートの襟元のタグを見ていた。
そこにふいに<memory>というロゴの連なりをみつけて、ほとんど20数年ぶりに、体温を感じる祖母と邂逅している、ゆめのなかの住人になっているかのような気持ちに駆られていた。 |