その四二五

 

 






 







 

























































 

うぉんと鳴く 声の余韻が 夜をうずめて

 よく、これさえあれば生きていけるっていう言葉を聞くけれど。それはそれだけを、信じているっていうこととイコールかもしれない。
 つい、うっかり口走ってしまいそうだけど、いった刹那、うそばっかりって思いながらもひとはそんなにほんとうばかりでつくられているものではないことも知っているから。
 ついつい、呼吸するように口走ってしまいたくなる。

 いま、毎朝たのしみにしている新聞の一角がある。鷲田清一さんの「折々のことば」。
 むかしから、折に触れて鷲田さんのことばに救われてきたことがあったので、連載が始まる前に新聞で予告記事を読んだときから、待ち遠しかった。
 その記事のなかでも、<「ことば」は、今までと違う自分に変わるための手がかり>とおっしゃっていて。
 いろいろなひとの口からや手から放たれたことばは、その放たれた途端すべてのものを巻き込みながら、影響、反応しあうものなのかもしれないと思った。
 
 5月2日の詩人の荒川洋治さんの
  
ほんとうに思っていることを、うまくかけない
  文章のほうがときには文章としては上である
 
そのことばに一瞬、つつまれてほっとした束の間、
<言葉はいつも過剰か過少で、出来事や経験とぴたりと一致することがない。が、その隙間に、祈りや悔い、希望や絶望が棲みつく。>と鷲田さんはおっしゃていて。
 一瞬うまく書けなくてもいいと、じぶんで言い訳しそうになっていることをきっちりとたしなめられる。
なにかを説明しようとする度に、言葉がいつもするりと掌から抜け落ちてゆくのが、ゆっくりと描かれていくのがわかった。あの齟齬を感じる、もどかしさのことをちょっと
わすれた気持ちになっていたけれど、首根っこつかまれて
引き戻される。
 目の前の霧がかすかな風でとりのぞかれたそんなことばの味わいを、かみしめながら。

       
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