その四四二

 

 

 






 

使




 





































































 

空足を 彼方でふんで 凪おとずれて

 この話終わらないかもって思い切りはしゃぎながら話をしていたのに、ふいに、ふたりのあいだに間が訪れて。
 その間が、だれにもなにもしゃべらせてくれないような、つかのまの間で。
「いま、天使が通ったな」って、彼女がふと云った。
いくつか先輩だった仲のよかった彼女にそんな言葉を聞いて、それおもしろいなって思ったことがある。

 たったひとつの間は、ただの沈黙じゃなくて。
 たったひとりの天使かもしれなくて。
その天使が通り抜けてゆくのをわたしたちは、静かにまっている時間だって思うと、とてもふしぎな時間を共有しているような気がする。

 フランス語では「アナジュンパス」といったニュアンス
で、云われるらしく。
 ふいにいろいろなフランス映画を思い出しながら、そんな映画のどれもが、登場人物がみんな饒舌だったことも同時に思い出した。

 恋愛映画なはずなのに、肝心の恋愛よりも、恋愛を語る
映画になっていたりして。
 彼らはほんとうに、よくしゃべるのだ。
 だからかなって思う。そんな途切れることのない会話の
中に、ふいにおとずれた一瞬の間は、とてもとくべつなもののように感じたのかもしれないと。
 
 そうあのときの先輩の彼女は、言葉を扱う仕事の人間らしくじぶんなりに、表現を変えてみた。
「あれは、天使やなくて、凪やな」って。
 凪っていいなって思ったから。時々ふたりの会話のなかに間がおもいがけずやってくると、ふたりで、「今、凪やったね」って云い合ってたりした。

 おだやかな波のような時間の贈り物。
 会話は声だけで成り立っているんじゃなくて、そんな凪もふくめてひとつの会話なんだなって思った。
 映画の中でも、だれかがなにかをしゃべっていた時より、なにもことばにできなくなったときの表情が印象に残っていたりする。みえていないものも、時間を構成するだいじな一員なんだなって。「アナジュンパス」なひとときが、いま訪れたような。

       
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