あの歌を 耳のすきまに とじこめてゆく
電波がくるってとか、次元とじげんをとびこえて。
そんな言葉がゆきかう、スクリーンをじっと見ていた。
去年のクリスマスイブに横浜の黄金町にKさんの追悼上演会があったので、久しぶりに映画館を訪れた。
「一万年、後・・・・。」という名の映画は、平成時代が
遠い昔のことになっていて、いまや日本は存在しないよう
なずっと先の先の時代を描いていた。
一万年前に生きていた映画監督の男が、ずっとずっと未来の甥と姪に電波の狂いのせいで、出会ってしまう。
でも、出会う場所は、まるで昭和のど真ん中を象徴する
ようなちゃぶ台だったりして、予定調和はどこにもなくて。
つまり「あの世」を描いているのだけれど、そこには、
いろいろな不可能ばかりがつまっているはずなのに、既視感に支えられているせいか、こっちのアンテナもゆるやかにあやしくなってくることが心地よかった。
映画を見ていてちゃんとシーンのひとつひとつに裏切られて、どこに連れて行かれるかわからない体験も久しぶりで。
映画の中で主役を演じているスクリーンの中のKさんは、
「彼岸」からやってきたという設定だけれど。
いま、ほんとうにKさんはこっち「此岸」にはいなくて。
時々そのことがあまりにリアルすぎて、戸惑った。
最後の場面は「ゴンドラの唄」だった。
♪いのちみじかしこいせよおとめ。
その歌はなんとなく知っていたけれど、その歌が、初めから「ゴンドラの唄」だとわからないぐらいの、電波の乱れの中に隠れていて、ずっと耳をすませていると、やがてそれがあの歌なのだと気づく演出だった。なにもないスクリーン上で音だけが存在感をもって、響いてゆく。それも歌声はとてもお年を召した方の懸命な歌声で、それを聞いているだけで不覚にも
なみだしてしまった。
だんだんとチューニングがあっていなかったものが、そろりそろりとひとつの鍵穴みたいなところにおちて、やがてぴたりとあってゆく。
このことは人が出会って別れてゆくときそのものみたいで、ほんとうに途方に暮れる。 |