その四四八

 

 






 







 



















































 

やけるほど 夕焼けを見る 冬枯れの午後

 庭に去年の終わりがちょっと暖かかったせいかロウバイが今年を迎える前に早めに咲いていた。
 黄色い色は、どことなく一足先に春に触れているみたいで、みているだけで、ほっとする。
 落ちている花びらはほんとうに、透き通っていて蝋でこしらえたみたいで、透き通って見える。
 
 この間生物学者の福岡伸一さんのエッセイを読んでいて、そこに植物に関することが記されていた。
「植物はこの溢れんばかりの過剰を使うことも享受することもなく自然に還す」というフリードリッヒ・フォンシラーというドイツの詩人の言葉を引用されていた。
 植物の光合成のことをなんとなく思い描きながら次の文章へとすすむと。
「一時生産者としての植物が、太陽のエネルギーを過剰なまでに固定し、惜しみなく虫や鳥に与え、水と土に与えてくれるからこそ、今のわたしたちがある」

 植物は、ほんとうにただ与えるだけの存在であることに
今更ながら、はっとして気づく。
 動物は、あふれる栄養素をじぶんのなかにとりいれて、
消費してゆく。
 福岡さん曰く、「生命は本質的には利他的である」。
「利他性を絶えず、他の生命に手渡すことで、私たちは地球の上に存在している」と。
 どこにもあるいてゆくことなく、生まれた場所だけでいきゆくしかない植物は、その成長のゆるやかさにおいて忘れがちだけれど。
 手渡すという行為は、なにか大切なものを包んでいる掌を思わせてくれる。植物はただ植物であって、あの太陽を存分に吸い込む行為も、それはただほかの生き物に手渡すだけで、
けっしてじぶんじしんのためではないところがとても、うつくしいなと、はじめておもった。

 ふと庭を見る。植物たちはいつもだまっているけれど、
みえないところでおおきな変化をつくりだしているそんな営みを思うと、いままでなにもみていなかったことにぽんと後ろ頭を叩かれたみたいに気づかされた。 

       
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