その四五二

 

 






 




 





















































 

あやふやな 記憶のままに 水と戯れ

 久しぶりに邦画を観ながら、話の展開とはまるでちがう細部のシーンにはっとしてしまう。

 それは村芝居で歌舞伎を演じることが生きがいのチャーミングとしか言えないような村人たちの日常が描かれていて。
 現在は60代後半の人生を生きている善さんが、芝居の稽古をしているある日、村からずいぶん昔に去って行った友人とじぶんの妻を目の当たりにする。
その時の善さんの立ち居振る舞いに引き込まれてしまった。

 屋外の舞台の上にいる善さんが緞帳のような引幕をはらりとめくる。すると、引幕の外側の広場には、幻のような年を重ねた、なつかしいふたりを発見した時に、善さんはその引幕をいちどめくって確かめて、もういちどめくる。

 たったそれだけのシーンだったけれど。
わたしはその時、引幕の内側つまり舞台の上は、仮の姿で、その外側は、現実なんだなってあたりまえのことかもしれない、けれど、そんな思いにとりつかれていた。
 みんな誰しも現実を生きているけれど、村人たちの歌舞伎を演じるということの楽しみは、ちゃんと仮の場所を確保することで、なんともないようなふつうの日をこなしてゆけるものなのかもしれないと。

 ひとはそんなにげんじつだけをみつめて生き続けてゆけるものではないのかもしれないと思いながら、それでも毎日をいきていくための引幕の内側という装置はだれにとっても必要なんだなって思う。
 それが村人にとっての歌舞伎なんだと
 そして、今と昔があやふやな病を抱えている善さんの奥さん。
彼女が登場するたび、日常がある意味現実にひっそりと仮の姿がまぎれこんでいるようで、いまここの輪郭がちょっと揺らぐような仕掛けに満ちていた。
そこに描かれている人たちの愛すべき姿は、ずっと覚えておきたい情景ばかりだったような気がする。

       
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