その四六三

 

 






 







 




























































 

とめどなく 器のみずが こぼれていても

 絵本をひさしぶりに開くと、ほかの本の中にはない、じぶんの居場所のようなものがすっぽりとそこにあるような気がする。

 やっぱり絵のせいなのか、短くそぎ落とされたそれでも、とても気の利いた言葉のせいなのか、わからないけれど。
 こころがおさまってゆくところにおさまる。

 現実ばなれしているようなのに、まるでリアルにかんじられるところにほんのすこし救われるのかもしれない。
 かといって予想がつかないものばかりで、こんなオチだったのかとちゃんとこっちをだましてくれるじゆうな想像の羽をもっていることにも驚かされる。

 絵本だけではなくて最近は、日本語圏以外の方の俳句にも似たものを感じている。

<水の上に水のひびき/葉のうへにさらに葉のかげ>
 詩人の故、ポール・クローデル氏の作品に出会った。
 はじめて目がその句を追った時、頭の中に描いた映像がひとりでに映画のシーンをみているように、カメラがパンしてゆくのがわかって、心地よかった。
 ほんとうに静謐な水の音がきこえたすぐせつな、その想いを滑るようにして、視線がややうえに伸びてゆく。伸びた先には木々の葉がところどころ重なりあいながら木漏れ日を描いている。
 短い句のなかに聴覚と視覚がいりまじっているのに騒々しくなくて、ちょと清涼感につつまれている。

 言葉はいつだって不自由だなとしゃがみたくなっていたところに、こんなすてきな作品にであうと、ちょっとまた、立ち上がってみようという気持ちが追いかけてくる。
 こころはときどき閉じてみたくなるけれど、でも時が満ちたら、また開いてみたくなるものなのかもしれない。

       
TOP