その四七五

 

 





 






 


































































 

エンジンが ことばになって 風にまぎれて

 冬支度していると、窓を開けたその場所にあったちいさなメモ用紙が、風に吹かれてフローリングの床にちらばった。
 拾いながら、あぁ風がこの間よりも冷たくなっているなって、思った。
 こういう季節はいちどだけ、落ち込むのだ。
 去年もそうだったし、たぶんその前もそうだったかもしれない。
 人の体は生身だから、外気に触れて反応するようにできているのかもしれない。
 
 生物学者の福岡伸一さんのエッセイを読んでいたら、<風の中に含まれているもの。それは切れ切れになった時間の記憶だ>という言葉に出会う。

 砂丘のすぐ上を風が舞う。風紋がうごめきながらまるで生きているようかに見える。
 風が砂丘の上であそんでいるとき、それはたしかな輪郭をともなったかのように、みえるのだ。
 色もなく、掌にのせることもできないけれど。
 掌の上の砂は、その風で吹き飛ばされてゆく。
 あるのにないけれど、ないのにある、不思議。
 
 たくさんの国をバイクで旅してきたそのひとは、風が変わると、ちがう国にたしかに来たのだとわかるんだと話してくれたことがあった。
 もう一度<切れ切れになった時間の記憶>という言葉を、思い浮かべる。
 その人がガラにもなく好きだって言ってた、
<秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ
 おどろかれぬる>
 この和歌のほんとうの意味を体ぜんぶで知っていたのはあの人だったのかもしれない。風が好きだったあの人はいまはもう風そのものになってしまったけれど。

 ほんのつかのま、おもむろにふいてゆくいまの風のなかにあの人がまぎれていたら、いいのになって、思ってみたりする神無月の夜でした。

 

 

 

       
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