その四八八

 

 





 





 











































































 

あまちゅあな 視線とこころ 駆け抜けてゆく

 すごくフェルメールがすきなわけじゃないのに、左からさしている光のそばで、ミルクを注ぐでっぷりふとったエプロン姿の女のひとのその、作業のかたちがすきだなって、ずっと思っていた。
 
 古い雑誌を置いてある珈琲屋さんで、すきな生物学者の方のエッセイが掲載されていた。
<物体の運動を一瞬とどめ、そこに至った時間と、そこからはじまる時間を記述する方法はないか。
 まさにそのようにして数学における微分法は生まれた> 
 そんな文章に目が留まる。
 数学はいまでも苦手だけれど、時間が流れてゆくその過程が、興味深くてちょっとそのお店に長居したくなった。

彼は、絵画の世界で微分を発見したのはフェルメールだとおっしゃっていて。
 そこにあのミルクを注ぐ女の人の作品を用いて解説されていた。
初めてあの絵を観た時、どこか時間が止まっている感じがするのにただ静かに止まっているのではなくて、時間は進みながら、ミルク壺に注がれている印象を持ったことがあった。
 手紙を読む女の人も、それまでの時間があったことを思わせるし、またそこからの時間も想像させてくれる余韻が、絵画のなかに込められている。

 物事をひととき止めてみて、ただ止まっているのではなくて、その時間が前にも後ろにも動き続けていることの証として微分があったのかなと、つらつら考えたりしてみた。

 注がれたコーヒーにピッチャーでミルクを注ぐとき、すこしだけ世界が輪郭をもって成し遂げられているような、妙な気分になる。
 ただようものを引き留めているようなそんな気分が満ちてゆく。窓の外は家路に急ぐ人々が足早に過ぎてゆく、その背中を一瞬とどめてみたい。そんな思いに駆られていた。

       
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