その四九二

 

 






 







 
















































































 

春の夜の ひとりびとりの 雨打つ窓に

 ふたつ並んだ椅子の写真を見ていた。
コーヒー豆の広告写真。やわらかい木調のダイニングチェア。
 でもよくみると、そのふたつはまったく同じじゃないことがわかる。
 ボディコピーを読んでいると、同じ日にふたりで買ったらしいその椅子。コーヒーを飲むときはそこに座って。それを何年も続けて、年月とともに気が付くとちがう顔をしていた。
 そんなことが綴られていた。

 その写真には誰もひとは出てこないのに、そこに腰掛けていたふたりのすがたが目に浮かんでくるような気がする。
 椅子の座面のへこみかたが、微妙にちがう。
 たぶんじぶんじゃないほうの椅子にそっと座ったとしたら、うっかり誰かの椅子に座ってしまったような気がしたせつないつも暮らしている誰かの輪郭に触れたような気がする瞬間かもしれない。
 
 誰もいないのに、そこに写っている時間は、まぎれもなく誰かと誰かの時間で。
「時間というものが、過去現在未来という一直線の流れじゃなく、混ざり合ったり集まったりしてるように感じることがあるんです」という新聞の記事でみかけた作家の言葉。

 時間と空間がどこかゆらいでいる感覚をもたらす不安と安堵。
 ゆるぎないって言われると、余計にもやもやしてしまうけど、ちゃんと時は、はかないっておっしゃっているその言葉を目にしているとたちまち、風通しのよさを感じる。
 ふたたびあの椅子の写真を想う。
 いないのにいる。だれもそこにはいないのに。その椅子に座りながら交わされたたくさんの会話や凪のような時間を想っては、ゆめのように途方に暮れてみたりする。

       
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