その四九六

 

 






 






 

















































































 

育ちのいい メレンゲみたいな せなかのままで

 もう長袖のことなんかは、すっかり忘れて。風をはだで感じるような季節になっていた。
 ほんとうになまみだなって思う。
 季節の変わり目ですねっていう挨拶も、半ばルーティンのようになっていて。すこしだけ罪悪感があるけれど。

 外気と肌はとてもちかい場所に位置しているから、それはそれでいろいろな困難なことに出会ってしまうのだろう。
 
からだとこころのばらんすなんてもしかしたら、とれていた試しがないのかもしれないし。
 それでも、ふちのふちから落っこちないように歩いてゆく術をいつのまにか身に着けてしまったのかなとも思う。

<かなでる>というテーマに沿った一冊の雑誌のページをめくる。
 海がひとが、そらがふねが、ジェリービーンズがグレン・グールドが蓄音器が。
 ことばを奏でていた。
 かなでる日常ではないところで、暮らしている。まるで日々それぞれがなにかを奏でているかのような錯覚におちいりそうになりながら。その雑誌のもつ雰囲気がすきなのは、もしかしたらどこかの誰かは日々を奏でているのかもしれないと、まっすぐだましてくれるせいなのかもしれない。

 さいごのページには、ケニアの伝統楽器、ニャティティを演奏する女の人が紹介されていた。単身ケニアの奥地で修行したと記されていて。ほんとうに奏でる暮らしをしている人を目の当たりにして目が覚める。
 運命と覚悟がみなぎったひとは筋肉のついた精神を持っているような気がした。
 それではじまりのページにもどる。
<こだちもこどももさびしそう>
 そんな詩の欠片に出会う。すこしこころが奏でられて、つかのまとまどう。

       
TOP