その五〇三

 

 




 







 























































































 

からっぽで とぎれとぎれの 誰かのまなざし

 誰かと喋っている時に、親しい人の場合だけれど
「いま、私の言った意味ってわかる?」
 って聞くのが癖になっていることがあった。

 それは、その人が私の言葉の意味を理解していないとみなしてるとかそういうことではなくて。
 ただただ、こちらの言葉がちゃんと伝わっているかふあんなのだ。
 でもどうして伝わってるかなんて図れるのか。

 わかってるよって誰かが言う。
 ほんとうにわかってる? 今言ったのってこういう意味なんだよって。
 伝わっているかを図ってとしてどうしたいのか?
 なにをそんなに理解されたいと願っていたんだろう。
 さびしいあまりにたぶん、言葉だけをむだに消費していたのかもしれない。

 この間映画を観ていたら、すこしいいなっていう歌詞に
出会った。
『遠い声、静かな暮らし』という1950年のテレンス・
デイヴィスという監督の作品だった。
 どこかの家族の部屋の階段だけが映っているなかで、そのどこか遠くで家族たちが朝の時間をあわただしく、準備に追われているような声がする。
 だれひとり姿はみえないのに。
 声が聞こえるから、いつかその声の主がスクリーンに現れるんじゃないかと待っているのに、なんどもかわされてしまう。

 そこで歌の歌詞が字幕に映し出される。
<雨粒が落ちるたびに 流した涙を思い出す。
 無駄に流した涙を。>
 たったこれだけなのに、とてつもなく琴線に触れた。
 うまく思い出せないのに、おなじ涙を経験したような。
そんな既視感に包まれながら、からっぽの時間に、なにか
が、そっと注がれたような気がしていた。

       
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