その五一八

 

 






 






 






























































































 

ゆめをみる みてもいいよと ららばいのこえ

 2月は、もう師走のように駆け抜けていったような気がする。夜、なにげなく空を見上げて、あぁもう、満月がやってきてるんだって思ったら、2月は、猛スピードで、疾走していったみたいだった。

 廊下の端っこには、壜に入れたチューリップの球根が緑色の網を破って少し芽を出している。
 いつも新聞屋さんが<ありがとうございます、新聞とってくださって>の代わりにポストに球根をそっと入れて置いてくれる。もらった時は、母とよかったね今年は何色かなとかって言ってるのに、たいてい、暖かくなり始めてから、あわてて庭に植えたりする。

 祖母が生きていたらぜったい怒られてるなって、思いながらごめんなさいをしながら、廊下を通り過ぎる。
 で、キッチンの硝子壜にも。
 アボカドの種がいくつも重なっているのを目にしながら、洗い物をしたりキュウイの皮をむいたりしている。あっちの世界に行ってしまったあの人に、おまえねぇって言われてるなって思いつつ。
 
 ある雑誌の表紙裏のページにアボカドについて、書かれた詩を偶然にみつける。
 なんとなく背表紙に指が触れたその感触がよかったから久しぶりに開いたら、気になっていたアボカドの種の話が詩になっていた。大好きな木坂涼さんの作品だったので、うれしくなる。

 その詩の中でアボカドがコップの水に種を浸しておいたら、<丸いこの種に亀裂が走り割れ目ができる>
と綴られていて。さっそく今夜試してみようと、思う。
チューリップとアボカドへの負い目なのか、なぜか豆苗だけは、キッチンで育て始めた。それが昨日だった。蛍光灯を太陽の光と勘違いしてしまうせいなのかすくすくと伸びていて、健やかな感じ。

 木坂さんの<夜の水>という素敵な詩の世界に触れる。てのひらで転がせそうな種たちの時間を奪わないように、居場所ぐらいは整えてあげなければと、そんな気持ちが、みしみしとわいてくる。

       
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