その五二十一

 

 






 






 































































































 

てのひらの 水のしずくを あなたにあげる

 からだのどこかが、水にふれているだけで、どういうわけか、ふいに落ち着いてくることがある。
 むかしからそうなので。むしゃくしゃしたり、落ち込んだりすると、すぐに水場にゆきたくなる。

 垂直に流れてゆく水の球は、となりやどこかの水の雫といっしょになって、ふとってゆく。
 でもその重みに耐えかねて、ぶんれつしたり。
 おいかけるしずくとおいかけられるしずく。
 その一連のドラマをみていると、ほんとうに飽きなくて、いつまでもみてしまう。

 表面張力のふしぎはこどものころに、知って、どこで力尽きるかみたいなゲームを友達としたことがあったけど。
 福岡伸一さんのエッセイで知ったのだけれど、水は<樹高100メートルものメタセコイアの根から梢までを引き上げる>のだとか。

 水の中には<プラスとマイナスの相反する2つの力が内包されている>と綴られた文章を読み進めながら、あのコップなみなみの水がいっぱいいっぱいその身を保っているときの、はりつめた感じはこれ故だったのか、とすこしわかったような気持ちになる。

 ひそやかにつながる水の雫は、<たやすくこわされ>やすいものでもあるらしい。
 窓にはりついた水の球を目で追っている。
つかのまひとつになった姿は、永遠ではないことを知っているはずなのに、視線を泳がせながら追ってしまう。
ちがう性質のものが、出会ってむすばれて。
 むすばれたものは、ささやかに閉じてゆく。
 あっけなくばらばらになるものと、知りながら出逢ってしまう水の雫を、なんとなく3月の終わりにみていると、あらゆることのこたえがここにあるようで、ちょっとはからずも切なくなってしまった。

       
TOP