その五二十四

 

 






 







 






























































































 

春の風 さらってゆくよ ほどけてゆくよ

 その人の名前をみるたびに、どこかでこころがいやに、微動する感じがむかしはずっとしていたのに、いまはただの文字の連なりのようにしかみえなくて。平気になった。
 この平気になるまでの時間って、数えていないけれど、
大変なものだと思う。大人の人はそういうことなにもなかったかのように雑踏を歩いたりしているけれど、みんなえらいなって思ってた学生の頃を思い出した。

 なんか許せないって言うか。
 制服を着た女の子たちが言っている。
 許せないこと多かったなって思う。
 ゆるせないことばかりで、もうどれがゆるせない1号かさえわからないかんじ。だからよくわかるし。いまこんなに年齢を重ねてしまってもゆるせないことはゆるせないし、ゆずりたくないとおもうこころは、かたくなにある。

 でも今でもゆるせないことはほんの少ししかなくて、それのどれもどれもがどこかで、いつしかほどけていった。
これも時間っていうことなのかなって思う。

イタリアの鞄職人さんにインタビューされた記事を読んで
いて、はっとしたことがあった。
<時間はまず色になって表れる>
<素顔の革>が年月を重ねて<飴色のツヤに包まれ>てゆく様が描写されていた。
<そして時間はかたちをつくる>と。
 持っている人の<クセを覚え>、<身体に馴染んでゆく>

 これってひとも同じなのかなって思う。
 ひとのものの考えかた思い方も、時間と共に変化してゆくし、とどまっていないものだ。
 その人らしさってよく言うけれど、あれもそのひとが時間を味方につけて獲得していった何かなのだと思う。
 いい味だしているご近所のおばさんやおじさん。
 好きなデパ地下のお兄さんとか。
 みんなそういう時間を過ごしてきた人なんだと思ったら、春、くよくよせずにゆっくり歩こう。

 そんなあたらしい風を感じていた。
       
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