その五二十五

 

 






 






 

































































































 

いつの日か おとなになって しまうんだって

 お母さまとずっといっしょに住んでいる女の人の話を聞いていた。
 ずっと離れ離れだったのは、ちょっとややこしいモンダイを抱えて、ストのようなまねごとをして、家を出て行った大昔ぐらいで。
 それ以来、ずっといっしょにいるらしい。

 最近は彼女が幼かった頃の話をお母さまがよくしてくれるのだとか。朝父が出かけてから、パンを食べる時にすこし肩をあげて、はずかしそういおいしいって言っていたとか。
 大きな黒い雲がでてきたら、砂場のおもちゃを片付けて家に入りなさいねって言ったら、遊ぶことよりも、空の雲ばかりをみあげては、ちいさなもくっとしたものが出てきただけで、みんなが使っていた自分のおもちゃまで撤収して、みんながあっけにとられていたとか。

 まぁ他愛もないことなんだけどって彼女は笑う。そういうときのちいさかった頃のじぶんが大きくなりすぎて今になっているんだけど。そのちいさな女の子はどこか自分のようでじぶんとはちがう誰かのような感じもしてくるんだよねって。だから話をききながら母と今のわたしと、どこかにもうひとり女の子がいるような、そんなふしぎな感じかな? って話していた彼女のことばがどこか耳の奥に残っていた。

 今年の初めぐらいに、森村泰昌さんのことばに出逢った。<おとなに なってしまったら わからなくなることも たくさん あるはずだ。>
 うわって、思う。なんかいちいちどきどきしていたかもしれないし、今よりも感じることがこわくてふあんだったかもしれない。けれど子供の頃すきだったことって、今もすきだし。あの頃の性格はそのまま引き継がれていまに至ってるようにも感じる。こどものころに拾った種をてのひらで、息をふきかけたり、ぎゅっと握ったりあたためながら、おとなになってまだそれを手放せなくて、いろいろと孤軍奮闘しているこの頃だけれど。
 彼女が言うように、母が憶えてくれている相似形のちっちゃなわたしがじぶんにもあって。そういうところにちょっと救われているのかもしれないと思う<こどもの日>でした。

       
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