その五四三

 

 






 





 













 

そびれる ことばみたいに 雨が穿つよ

「くたびれたソファがさ、気づいたら破れてたからガムテを貼っていたの」って知らない人の声が近くから聞こえてきて。
おもしろい応急処置だなって思って、うちはなんでも、ガムテで処理するから。なんでもって? ってすごくその先が聞きたいと思ってたら、とつぜん、お店の屋根を突き破りそうなぐらいの轟音が、聞こえてきた。

いつも日常のこまごまとしたものを買う店だったから。
不安はなかったけれど、音の正体は雨だった。
さっきまで、11月じゃないみたいに晴れていたから、とても油断していた。油断していることもきづかずに、カートと共にたらたらと歩いていた。
雨宿りを店先でする。円柱の箱の中に入ったビニル傘を入り口で売り始める。

その店のすぐ先で待ち合わせをしていたので、買い物が終わったすぐ後で、走るか否かの判断を強いられた。
その人は、たぶん雨の音を聞きながら、待っていてくれているのかもしれない。
1人の女の人が、その雨宿りの列からぬきんでて、斜めに走り出した。すこしだけ鞄を頭の上に乗っけて行くときは行くっていう風情で、颯爽としてかっこよかった。
雨が店のひさしを、突き抜ける音はほんとうに激しいエネルギーそのもので、雨ってやっぱりぬれてつめたいとかの前に、<音>なんだなって思った。

いつだったか、今年の5月頃カンヌ映画祭の受賞スピーチを聞いていて書き留めてしまったことがある。
『ドッグ・マン』という映画で男優賞を受賞したマルチェ
ロ・フォンテさんの言葉が印象的だった。
「幼い頃、雨の日に家で目をつむると雨音が拍手の音のように聞こえたものだった。今は皆さんの拍手に包まれ、まるで家族のような温かさを感じます。家にいるような居心地のよさです。映画も私の家族です」
この後、カンヌの皆さんとカンヌの砂の一粒までもが大切
におもえます。感謝しますとつづいてゆく。こちらまで、
優しくなれそうな気持にさせてくれるすてきなスピーチだった。
失われたはずの抒情としての雨と家族がそこにあることが、胸にひたひたと響いてきた。雨が降ると時折、マルチェロさんの言葉をひっそりと思い出したりしている。

そして、ぜんぜん抒情でもなんでもない季節外れの夕立み
たいな大粒の雨の中を、わたしは走り抜けていった。
待っている人は、走ったの? この中を? 傘持たずに?
って表情で、立ち上がって待ってくれていた。

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