その五四九

 

 




 







 

















 

恋しいと おもうせつなに わくらばはらり

窓を開けるとロウバイのつぼみがほころんでいた。
去年の台風で塩害にあってしまって、葉っぱが白っぽくなっ
ていたけれど。ハサミを入れるのも怖くて。
そのままそのままにしてあった。
そしたら去年のことなんてなんにもなかったことのように、
ちゃんと例年の如く、黄色く透き通りながら咲いていた。

自分の身になにかが起きていてもこの何事もなかったかの
ようにふるまえるというのは人でも生き物でもほんとうに、
あこがれる。
だから去年、齟齬を憶えたあれこれについて今年になって
ああじゃないこうじゃないと逡巡するのはやめようと、ロ
ウバイを目にしたときいっしゅん反省した。

今年に入って個人的に、あれはあのときまだ知らなかった
けれどあのひとがああいうふうにそことつながっていて、
だからいまわたしがこのことをおろそかにしてはいけないっ
てなぜか思わされると思っていたことはもしかすると、い
わゆる多生の縁だったのね的な出来事が重なって、腑に落
ちるという経験をした。
 
そんなとき若山牧水の
<海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり>
という歌を目にした。
なにかとても悲しいことがむきだしのままじぶんに向かっ
てきているとき、眼をつむってしまいたくなることはよくあ
るし、そういうときの対処法としてはそれがいちばんのこと
もあるなって思いながらその歌を読んでいた。
いまわたしは眼の無き魚が恋しいわけじゃないけれどって、
思いながらいい歌だなって他人事のように眺めていたある日。

YouTubeである人の言葉をみつけた。
とてもほがらかに、嘘のないいつもの表情でお祝いのメッセー
ジを語っていらした。
そしてそのことばのむすびに、<ライフイズショート>と
ふたたび屈託なく声にして自分の名前をその後に重ねて、
数分のメッセージは終わった。

いまはもうここにいないその人のことばを耳にした途端、
Kさんは無意識の中でなにかをすでに知っていたのかなっ
て思うと、じぶんのきもちの行き場がみえなくなった。
その思いを抱えたままふたたび夕暮れのロウバイをみる。
なにごともなかったかのようにふるまえるって、やっぱり
ただ事ではないと思いつつ、外のシャッターを下ろしなが
ら、今一度牧水の歌の<眼の無き魚の恋しけり>を焦がれ
るように思い出していた。

 

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