その五五〇

 

 






 







 












 

吹き抜ける 風のにおいに あやまちとけて

バケツの中で赤や緑や茶色の絵具がついている筆を、
浸してしゃらしゃらと揺らしてゆくと、水の中で、
それぞれの色が溶けてゆく。そんな途中の色たちが、
溶けてゆこうとしている絵が扉に描かれていた。

<過ち>について書いてある、みじかい小説に再会
する。むかし好んで彼の作品をよく読んでいたので、
なじんだ時間が、すぐそこに触れられる側にあるよ
うで安堵する。なじんだ作家の作品ってこういうこ
と、なんだなって。つまり信頼してるってことだと、
思いながら読み進める。

雑踏を行く人たちの過ちが、そこにはあふれかえっ
ていて、もしそれが<桜の花びらのように>目視で
きたとしたら<空を覆い>つくしてしまうだろう。
そして、<わずかばかりの後悔とともに>路地に散
り消えてゆく、そんな冒頭。

何年も前にも読んで好きだったはずなのに、今違う
箇所でたちどまりたくなってしまう。
<過ち>について描写されたいたことをすっかり忘
れてしまって、その掌編をくるんでいた淡いたみず
みずしい色だけを憶えていたようなそんな感覚に陥っ
た。

一字一句あたまのなかにしまわれているわけじゃない
から、物語のいくつかはじぶんの中の風景のように、
記憶されている。漫画だって歌詞だって小説だって。
漫画でみた風景、たとえば空き地に捨ててある、ポン
コツの黄色い車の側で咲いているコスモスと赤い傘の
男の子とか。
じぶんがそのコマの中にとけこんでいて違和感なく、
記憶してしまっていることがあって。あれはフィクショ
ンの出来事だったと後で気づく。

いつだったか、たぶん去年の暮れ辺り『風景論』につ
いての書評の文章を目にした。
<風景には過去といまを伝える力、およそ出会いそう
にない人々を結びつける力、あるいはこれから何か起
ころうとしている予兆として知らせる力がある>。
 
短い小説のなかの丁寧に紡がれた言葉を目で追う。
いくつもの風景のなかでひとは出会ってつみをおかし
て、別れて、そのつみをこころのすみにひきずりなが
ら、生きていくひとが描かれていて。その風景のなか
にいつかつみをおかしたひとのひとりとして、読者も
雑踏のなかにまぎれてゆく。
風景って、そこにある自然のただなかに人々がやっか
いにからみあっているから、その場所にさまざまな匂
いや色をにじませてゆくものなのかもしれない。

 

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