その五六一

 

 






 







 















 

泣きすぎた 男の子たち 雨を呑んでる

なにかに懸命になっているときは、ただただ走っている
だけでなにもみえていないことにきづかされる。
で、昨日きづかされたわけだけれど。

みえてなかったのはどうしてそれをしているのかってことで。
そこを、あたかも目的のように感じながらこなすことに力を
注ぎまくっていたじぶんに気づき。
その先がみえた。
目的じゃなくてそこはたんにはじまりにすぎなかったことに。

他人の価値観。どこかそこにフィットさせてみせることが
正しいことだと、まぁアングルがずれていたのかもしれないし。
答えはでていないけれど。
昨夜、風に翻弄されている家の樹々の葉擦れを聴きながら、
一晩経ったらおちついてきた。

いつだったか映画<ムーンライト>で聞いた言葉。
大好きな役者、マハーシャラ・アリが演じるファンが、
リトルとあだ名されたいじめられていた男の子と出逢う。
そして縁あって仲良くなったある日彼は言う。
<自分の道は自分で決めろよ。周りにきめさせるな>って。
新聞広告になったときから、あまりにかっこいい色刷りだった
ので、とっておいてしばらくは壁に沿わせて立てかけていた。
それを昨日の夜中引っ張りだしてきて、眺めてみる。

あの時は、まったく映画の中の台詞としてしか機能してい
なかったた言葉が、そっくりじぶんに返って来て、
びっくりする。
あの日、いいなって思ったことばは、どこかじぶんのなかにも
巣食ってる事案だったことをどこかで無意識に教えてくれようと
していたみたいに、すすすっとしみてゆく。

ことばでちょっと失敗したのにことばでまた励まされてるって
こういう循環であしたがつくられてゆくんだなって。
そういうえば、リトルが言った台詞もすてきだった。
ちいさなからだに大きすぎる荷物を背負わされていると
感じている彼が、夜の砂浜で特別な友達にいう台詞。
<泣きすぎてじぶんが水滴になりそうだ>って。
はじめて字幕と彼の声で聴いた時のあの感情がいま、
しゃがんだじぶんの膝のあたりでゆらめいている感じに
おそわれた。

 

 

 

 

 

 

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