その五六二

 

 






 







 















 

しぐさとか こえにならない 思いとかぜんぶ

薄緑色のカーテン越しの出窓の側で、ものを書いていると
いろいろな子供たちの声が聞こえてくる。
顔はよくわからないけれど、とにかく途切れとぎれの
台詞みたいに、耳に不意にはいってくる。

この間は、男の子が女の子に語った言葉に耳がとまる。
<ぼく、この間、しんきろうをみたよ。それでね、
しんきろうをさわったよ、ゆびで>
え? 蜃気楼だよね。私の思ってる蜃気楼じゃないかもって
思いながらも、唐突でシュールでうれしくなる。
相方の女の子はふーんって感じで、そこにはツッコまない。
言った側から疑問を呈するなんてことは、まずしない。
そんな年頃っていうか、その女の子のまず聞くっていう
スタンスがいいなって思いつつ。
その男の子がつぎになにを発するのか聞いてみたかった
けれど、角の向こう側にフェードアウトしていった。

それってまるで、先日書評で読んでいた
まど・みちおさんの言葉みたいだった。
<どんな小さなものでもみつめていると宇宙に
つながっている>
わたしはそのことばを眺めながら、その言葉を<どんな
ちいさなこどもでも>に、スイッチしてみた。

わたしがもしだれかの親になっていたら、そういうふうに
こどもたちの言葉をすこしずつコレクションできたら
おもしろかっただろうなって夢想することがある。
いつもいつもなにかとくべつなことをいうわけじゃない
だろうけれど。ときおり訪れるそういう瞬間って、
かけがえのない発見だなって、思い描いてみたり。

だからなのか。日記帳には自分以外のいろいろな人たちの
ことばであふれかえっている。とくに落ち込んでいる時は、
誰かの言葉をカゴ一杯摘みに行く感じ。
この間5月29日は、
<自分が好きでやっていることは何かのかたちで役に立つ>
という昔から大好きなコピーライターの方の言葉を聞いて、
ちょうど人生マックス落ち込んでいた時だったので、
とてもこころにしみた。
ありきたりだけど、言葉って毒にもなるけれど、
明日を思い描けるようにしてくれる甘い果実の役割も
あるんだなって。

 

 

 

 

 

 

 

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