その五七六

 

 














 














 

去年の ふたりの秋は いま何コマ目?

時々車窓は漫画のコマだって思うことがある。
思うことがあるっていうのとは違うかもしれない。
思おうとしているのか、日常のややっこしいことを
フィクションのように眺めてしまうことにして、
こころの平静を保とうとしている。
走っている時は、漫画のコマがとても横長に伸びて
いる感じで、流れていく。
停車駅で止まると、開いたドアのコマは突然途切れて、
座席の後ろの窓のコマに人々が描かれる。
人のいないコマはなくって、どこかしらに人々が配置
されてゆく。そこに登場するのはたいてい急いでいて、
社会のいろいろなしがらみをたっぷり背負ったような
人々で。

電車が走りだすと、ときおり人のいない絵がそこに
描かれて、時計と停車駅の名前と広告の看板が倦んだ
ように、過ぎ去って行く。
でも漫画ほどは面白くなくて、とても短調に過ぎて
ゆく。

大好きな作家の方のエッセイの中にマンガのコマは、
<「始まり」と「終わり」が含まれていて、それは
「瞬間」を描いているがゆえに、そこにあるのは、
きっかりと、切り取られた、時間。>という言葉が、
あってその言葉を読んでしまってから、電車に乗る
度に窓は漫画のコマだって思うようになった。
思うようになっていうより、思えばいいんだって、
思うようにした。

ふだんは時計を見る時にしか感じない時間を電車の
なかにいると感じてしまう。たちまち現在が過去に
なってしまう仕組みがそこにはあって。
気持ちもそぞろだと、たちまち、焦ってしまったり
するけれど。
みんなそんな時間のなかの生き物だからと、思うと
フェアな感じも抱いてしまう。

この間すこしうれしいことがあって。
少し前に挑戦したことがほんと失敗したって、反省
しきりだったことが、その出来事に直接かかわって
いた方が、あれ、よかったですよっておっしゃって
くださって。
あれ、やっておいてよかったってしみじみ思った。
ほんとうにやるせない日々だったので、せなかを
ぽんと押してくださったことばが、かなりこころに
しみた。

だからいつもはないようなそういう日を、一コマの
なかに収めてしまっておけばいいんだと。
漫画のコマの効用をいま知って刹那のしあわせ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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