その五八八

 

 






 






 
























 

風きざむ ことばのしっぽに ハグされたいま

すごくネガティブなところがいま花開いているよう
なので、すぐになにかに甘えたくなって。
誰かに、何かをそれはちがうと窘められて、すぐ縮んで
しまう。
縮んだ後溶けてしまう。
蛞蝓に塩かけたときみたいに。

椅子取りゲームの最後の椅子にも、座れなかった幼稚園
時代を思いだしているかのようなこの頃だけれど。
あの頃思っていたのは、どうしてみんなの数だけ椅子を
用意しないんだろう。ひとりあぶれるだれかをうみだす
なんておかしいって、強く思っていたけれど言えなくて。
たぶん、ふまんげな表情していたと思う。
幼稚園の篠原妙子先生は、いつもわたしが椅子にあぶれるので
ピアノで曲を弾きながら、その曲が終わる寸前にわたしの
名を呼んでそこ空いてるよって教えてくれたのに、その声を
聞きつけた誰かが座ってしまうしまつで。
ついに、先生は曲が終わるや否や、猛スピードで立ち上がり
いっしょに座りましょっていって最後のひとつの椅子に
誘ってくれたりした。
今頃、ありがとう妙子先生って気持ちがそこかしこに
あふれそうになっている。

今年がはじまって間もなくの頃、ポーチに入れて持ち歩きたい
ぐらい、しんしんと染みてゆく言葉に出逢った。
いつかわたしも着てみたいと思う洋服を作っていらっしゃる
方について語られていて。
<彼のやさしさは、倒れかかった時に、受け止められる強さ>
っておっしゃっていて。
たとえば、古い布が古くなって使えなくなったとしても、
それがまだ使える場所がどこかにあるんじゃないかと、想像
する。ぼろぼろになっていても布ならその布が生きてゆける
場所を探す。そういう<ちょっとでも現実を作ろうとする>
ところが彼のすばらしさだねって。
<ほんとうにやさしいってそこまで見ること>
彼の言葉を耳にしながら、やさしいって、そうかもしれない
って、こころの底がここにあったのかと思うぐらい
そこに言葉が着地していた。
やさしさは、年月を積み重ねることでしか見えないもの
なのかもしれないと。
その場しのぎのやさしさはやさしくないんだって。
その言葉を初めて聞いた日よりも、こういう日々だから
なおさら、言葉にハグされている気持ちになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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