その五九〇

 

 






 






 
























 

耳元で 告げられた詩を 風にうばわれ

この間、ある方とメールで演劇のお話をしていて。
その方も同年代だったので、小劇場ブームがあったあの頃の話に
気持ちが巻き戻る。
その方は<劇団青い鳥>や<夢の遊眠社>が好きだったそうで。
ふいにあの頃学生だった時のじぶんまで浮かんできて。
そういえばわたしはとてつもなく<劇団東京乾電池>がすきで。
ひとりで、いそいそと劇場へ足を運んでいたことなどを綴ったり
した。あの頃も一人好きで、いまもそういうところがあって、
すきなものを誰かとシェアしたりできなかったのは変わらない
んだなって気づかされた。

いろいろなことに、気づかされてただでさえ翻弄しているという
のにじぶんの来し方、というか在り方みたいなものを畳みかける
ように問われているのがいまなんだなって思う。

同じ時代を生きていた人たちと、あの頃の話をするのは、あまり
好みではないけれど。ひさしぶりに懐かしい話を、信頼している
方と齟齬を憶えずに話ができるって、いまとっても欲している
ものだと気づかされ、気持ちにすこしだけ余裕の色が添えられた
し、ささくれだたない唯一の時間だった。

2月の終わり辺りの日記帳を眺めている。
100分de名著を観ていた時のメモ。演劇と社会の間について。
@演者と観客の間に実存的な絆を生むA劇場に通うことで、
自分とは違う生き方を意識するなどなど。

これはすべて、自分以外の誰かに対してのベクトルまっすぐな
思いであって。自分以外のっていうところに今、羅針盤の針が
ぴたりと止まる。
じぶんとは違う誰かが舞台のそこで生きているって、
ほんとうはちょっと奇跡すぎるぐらいの出来事だと、はじめて
舞台を観た時のあの、あの時間を思い出している。
生きている俳優が、そこで誰かのまま、声を発し動き止まり、
時には殴り、逡巡し、抱き合うなんて。
それを目撃するなんて、もうここで観たことは誰にも喋らないで
くださいねっていうぐらい、事件なのだと。
すっごく、演劇をずっと愛してきたわけじゃないのに、
こういうこというのは、ほんとうにちゃんと愛してきたひとが
思うべきことで偽善なんだけれど。
一日のおわりがうまく畳めない。そんな日々をここに
残しておこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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