その六〇二

 

 















 






















 

シェアするって ちょっと愛して ほしいってこと?

みんながシェアしてくださいって言いあって。わたしも
一般的なSNSはやらないけれど。
心のどこかでシェアしてくださいって思っているのかも
しれない。

いつだったか、エッセイの中で最果タヒさんが、
「わららないぐらいがちょうどいい」ってタイトルのエッセイを
書いていらっしゃって。

すごく共感した。
共感ってつまり、共有だよねって思って。

彼女が冒頭で、

<どんなにシェアされたって、私が聞きたいのはそれじゃない>

ってはじまって。

<SNSで教えてもらった食べ物、好きな音楽、そんなものを
知ったところで私はきみをまだ知らず、きみに会いたいとも
思わない>

って。

エッセイと名付けれているけれど、その頃読んだ時、これは
彼女の新作、あたらしい詩なのかと思った
心の底から、ちょっとすきって思う。
でも、すきって思ったからって、わたしが最果さんの何かを
すべて知ってしまったわけじゃないし。

いくつかの彼女の詩を読んだときの、延長線上にある言葉だと
思ったので、大いなるジェラシイもありつつ、こういうことを
いつか空の下で言ってみたいって願望にも駆られながら読み進める。

<詩の言葉は、(中略)その人にしか出てこない言葉がそのまま、
生き延びている>

それは、詩人だけの物でなくと、展開して。
詩人でなくても、そういう言葉がきっとその人の中に残ってる
って。
だから、共有とか共感とか忘れてしまえばいいのにって。

あの日この文章を読んだとき、とてもすっとしたことを思い出す。
そして今も。こころが、風通しよくなったねって思った。

はじまりのタイトルにもどると、今この思いをすっごく
共有したがっている、誰かがたくさんこの世の中にいるはずで。

そういうしたたかで、しなやかな心の持ち主の人はもう、それを
実践しているかもしれないとおもった。
そういう人は、たぶんシェアというカテゴリーのどこでもない
ところで、しゃんと生きてるんだなって思った。

わからないけれど、すっきりとした背筋を持った、とても
ゆっくりと、呼吸のゆたかさと比例するように歩いてゆく
そんな人の姿を思い描いていた。

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