その六〇四

 

 







 







 





















 

漂う葉を 拾うように 言葉をひろって

ふいに、1月ごろの日記のページをめくっていたら、
そこには文字が記されているのだけれど。
読んでいるだけで、これはたった8ヶ月前のものなのかと
目を疑う。

疑うって大事なのよって母がよくいう。
肯定することよりも、疑うことの大切さをいつも力説する
度に、そうだけどさ。
って反論しつつ。

たまに、そういうことで喧嘩になるんだよなって思いながら、
日記のページをめくっていたら、なにかに呼ばれたかのように
愛読している新聞の連載<折々のことば>の切り抜きが、
葉っぱのようにひらひらと落ちてきた。

言の葉そのものだなって、てのひらに乗っけてみる。

<物事について考えを固めてしまわず、みえているものを疑う
よう心を開いておけば、世界を眺める目も丁寧
になる>

これは、米国の作家ポール・オースターの言葉で。

ラジオのリスナーたちとの体験談「ナショナル・ストーリー・
プロジェクト」からの引用らしく。

<自分が答えを持つ訳ではない事柄に、人は翻弄されつつ
生きるのだから>、
そうやって疑う心を開いておけば、
それは<注意深さ>につながるのだと。

みえているものを、肯定することが、心を開くのではなくて。
みえているものを、疑うことこそが、開いていることになる。
なんども、その言葉を眺めながら、行ったり来たりして。

日々、みえているものしかみていなかったんだなって、
気づかされる。

人も現象も、記事も、小説の言葉も、詩の言葉も。
なにかに追われていると信じているその思いに染まる日々に
取り囲まれていたような。

すこしだけ、あの日からの数か月を取り戻したい。
日記のぺージをめくりながらそんな気分になっていた。

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