その六一一

 

 






 







 











 

目覚めれば 目覚めた場所で つぶやけばいい

この間、手帳が着ぶくれているのでいろいろ整理しないと、
いけないなってちらちらと切り抜きを見ていたら。

いま紙の新聞読んでいるひとってどれぐらいいるんだろうと
思いつつ。

わたしは、紙8ぐらいで紙派だ。

そうしたら、好きな若松英輔さんの記事が目に留まった。

新聞のその記事が、赤丸で囲まれていた。

<世のなかには、毎朝目がさめるとその目ざめるということが
おそろしくてたまらないひとがあちこちにいる。ああ、今日も
また一日を生きていかなければいけないのだという考えに打ち
のめされ、起きだす力も出て来ないひとたちである>

今年の4月30日の新聞。

これは、精神科医でもあった作家神谷美恵子の「生きがいについて」
の冒頭らしい。

そう、もう忘れてしまいそうになっているけれど。
その頃は、緊急事態宣言されていた真っただ中だった。

たぶんわたしがそこに赤丸で囲んでしまったのは、
そういう気持ちがみなぎっていたからなんだと思う。

むかしもそういう季節があった。

あの朝が来るのがこわかったまだ若かったあの頃。

いつしか、飼いならすようになって日々を送ってしまうように
なったんだろうなって思う。

でも、今でもたしかにそういう朝の迎え方をしている人は
かならずいるということを、ちゃんと心の片隅にでも
書き留めておかなくてはいけないと思う。

いつだって、すぐそこに戻ってしまういつも危うい
足場に立っているのは変わらないのだから。

何かに気づかされたら、心の足先が今までとはちがう方へ
向かっていることなのかもしれない。

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