その六四七

 

 





 





 






 

何処かに 降り始めた にわか雨のよう

誰かの書いた文章を好きになるときってどこが
好きなんだろうって。

わたしはまだ見たことのない映画の評を書いて
いらっしゃった横田創さんの
「天使、まだ手探りしている」というタイトルの
映画評を読んだ時ひとめぼれした。

「壺からでたばかりの焼き立てのパンをトレーごと落として
さらにあわててその上から生卵を雨と降らせてしまったアル
バイトの女性を慰める言葉なんて、わたしには思いつかない。」

そんな冒頭を読んだ時これはわたしの物語かと思うぐらい、
彼女に似ていた。

失敗するひとにひいき目の視線を送りたい。
そして彼女はその場所から逃げてしまうのだけど
こういうとき、親しい者に声をかけられることは逆効果だ。

横田創さんのその眼差しが好きだと思う。
そして今ほっとしている。
わたしだったら声かけてほしくないだろうなって思うし。
心が焦りの汗まみれになってしまうだろから。

今日ほんとうは簡単な言葉でいいから、ちょっと
立ちすくんでいる人になんて言葉を書こうかって
想っていたから。

さっきまで書こうと想っていたけど。
ちょっと待ってみる。
そのことを見透かされたみたいに。
予言されたみたいに書かなくてよかったと安堵
していた。

たった一言こんな文章に会うとわたしはずっと
読み続けていたいと思う。
観たことのない映画をみたような気がする。
映画評だけなのに、もう見てしまったような。

そしてほんとうに見定めたいと思う。
そういうものが評なんだろうなって。
そして誰かの文章を好きになるとき。
文章もまなざしなのかもしれないと
思ったりする。

なにかを描写している、そこに注がれている
眼差しを好きになる。
今日のいちにちの終わり近くにわたしは
わたしじしんが好きな人の文章に
とても救われていた。

 



TOP