その十一






 






 







 

雨がつよくなるといちだんと冴えてくるのが嗅覚だ。
冴えてくるというとまるでじぶんのちからのようだけど
そうじゃないことはわかってる。
雨の匂いを導火線にしてすこしずつすこしずつ記憶が
あちらの方から訪れてくれるのだ。
鼻のすぐそばでいけない液体をおもいきり嗅いでしまったように
わたしは時計をぐにゃりと曲げて幼い日へと帰ってしまう。

つんとする消毒液の、ほこりを吸い込んだ重たいカーテンの、
しゃりしゃりいうハトロン紙につつまれた苦そうな薬の、
そして着物にしみついたおじーちゃんの温まった匂い。
どこからも子どもの生まれそうにない気配のとある雨の日。
おじーちゃんは仕事がないのでわたしと遊んでくれた。
その日の遊びはおじーちゃんをひとりじめできる
とっておきの遊びだった。
なつかしくなる緑いろの葉っぱがデザインされた
煙草の箱から取り出した1本をもういちどそこへ戻して、
おじーちゃんはわたしと手をつないだ。
足をのっけてごらんと煙草くさい口元が言った。

おじーちゃんのかさついた裸足のうえに
わたしのまだ小さかった足裏がのっかる。
こんなふうにして堂々とおとなの人の足を
踏み付けにしたことははじめてだったので
おそるおそるしているとおじーちゃんは言った。
『そのままで』。
そしてじぶんの足を床にじょうずに滑らせた。
じぶんよりおおきなおとこの人の足を踏んでいるのに
わたしのからだは宙を浮いているように心地よく
空気中に漂っていた。
うまれてはじめておとこの人と踊った記憶がふと甦る雨の日。

お客さんの髪をじょうずに刈ることのできる
おんなのひととそのおんなのひとを愛し続けたおとこのひとが
登場する映画ではかならずアラブ風に味付けされたダンスがでてくる。
おんなのひととおとこのひとの戯れるような踊りは
うっかり永遠の愛を信じてしまいそうにゆらいでいた。

いまはもういなくなってしまったのにわたしは
あの足の皮膚の温度や肌触りや手のひらのあたたかさを
思い出せるような気がする。
まるで夢のなかの出来事のように。
いまはもういないけどおじーちゃんはわたしのからだの重さを
どこかで思い出してくれているだろうか。

       
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