その十七




 







 








 

20代の半ばだったわたしに彼はこう云った。
<尖んがった風船はその尖んがりから 萎んでゆくことぐらい知っているよね>と。 その言葉の放つつよさとはうらはらにやさしい声で。
わたしはあまりに遠い気持を運んでくるそのことばを耳にしたとき。
ちょっといやすごく、いやな感じがしたのかもしれない。
ずいぶん年の離れたひとから云われたそのことばは今も
こころのどこかに残っているらしく、すこしくすぐるとするすると
憶い出してしまう。
じぶんがぱんぱんにふくらんでいたあのなくしてしまった風船のような日々。

いつだったかわたしはちいさな映画館で竹中直人監督の『東京日和』を観ていた。
隣にすわっていたのは、背広姿のおじいさんだった。
背筋をすっくと伸ばし、ステッキのてっぺんに掌を上下に重ね、
スクリーンに視線を送っている。
そこには一番近くにいるたいせつな他者への言葉にできない苛立ちや
愛しさや不安などがいっぱいに詰まっていて、物語というよりも
夫婦のせつないドキュメンタリ−という感じの映画だった。
エンドタイトルが終わるまで席を立たずにいたそのおじいさんを
隣に感じながらわたしもずっとそこから離れられずにいた。

真夜中なみなみとつがれたグラスの水を見ていて思い出した
そんな映画館での他愛もないある日の日常。
あふれそうであふれずにいる。
いっそこぼしてこわしてしまいたいような
ひっそりと息をこらえて維持していたような。
誘惑に満ちた<表面張力>を見ていたら、不思議に
あの日わたしが投げかけられたことばのもうひとつの意味を感じた。
尖んがっている風船。
それはわたしひとりのことではなくて。
彼自身がかつてそうであったことをプレイバックするようにして
わたしに放ちたくなってしまったのかもしれないことに気づいたのだ。
かつて風船だった日々のかけらを彼はその頃もまだこころのどこかに
持ち続けていたのかもしれない。
そう思うと二度と出会う事はなかったあの映画館で隣あわせになった
おじいさんはどうなんだろうと重ねるような思いにかられた。
すると、なぜだか目の前にある<表面張力>ってかなしい。
なんてことばがうっかり浮かんできてわたしはせつなさを追い出すように
そのグラスの水を飲み干してみたくなった。

       
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