その三四




 






 








 

はじまりの 種子のかたちに 眠ることばは

やさしい赤と白のチェックのテーブルクロスに
すっと差し込むひかり。
ひかりを手繰ればきっとそこにはあるのかもしれない
窓の気配を感じるしあわせな表紙の写真が印象的な
一冊の本を貸してもらった。

彼はときどきそうやってふらっとやってきて
一冊の本をリビングに置いてゆく。

その本はわたしと血のつながりのある彼が
すこし熱を持って愛読している編集者の
ぶあつい日記だった。

はじめてGという名を持った彼の文章にふれたとき
わたしはたまたま新幹線の中だったのだが
世界中をかけめぐる折々が綴られたそんな
ページをめくる指を急がせたいのか留まらせたいのか
わからなくなるほど、夢中になった。
そしてすぐにでも次の日記が読みたくなった。

これで同じ著者の日記を読むのは2冊目になる。
他人の日記に記してある日付けってどうしてあんなに
気になって仕方がないんだろう。
たくさんの鍵穴の扉の前に立っている感じがするような。
ひとつしかない鍵にぴたりとあてはまる扉がどこかに
あるかもしれないというささやかな希望みたいなものに
似ている。

彼の日記はふしぎに暦どおりではなく記されている。
<時間は時順番でなくじぶんの記憶で決まるような気がする>と
綴られていたコトバを思い出した。

G氏とわたしに流れていた時間は重なっていないのに
じぶんの過去の日記を右に左に繙きながら彼の文章を目で追っていると
不思議な気持になってくる。
ひとつとして同じ時間は存在しないのに、わたしも彼の日記の
片隅に棲んでいた瞬間があったような錯覚に陥りそうになってしまう。

今もリビングにあるその日記は毎日すこしずつ
わたしと過去をやわらかくつなげてくれる大事な一冊だ。
だからちびりちびりと小さな器で飲む日本酒のように
だいじにページをめくっている。

そのなかのとある1ページの耳が折られていた。
見過ごしてしまいそうなことばのつらなりのなかに
つかのまひかるコトバをみつけて、わたしはおだやかになる。

表紙の写真がいつまでも好きなのは
一枚に写らなかった窓のたしかな存在をひかりによって
確認できるからなのかもしれない。
その理由がいまわかった気がした。

       
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