その三八








 







 










 

足跡を 濡らしたままで ちょっとそこまで

運転席から見えるぼんやりと点る妖しい光り。

思うがままにまがった道のまんなかあたりに
ちょっと不自然にぽつんと突っ立っている
ひとつの公衆電話ボックス。

主人公の中年の男の人はそこに吸い寄せられるように
車をとめる。
そして、なにげなくポケットの中の10円硬貨で
電話をかけてみる。

ほんのいたずら心のような感じでダイヤルを廻すと、
つながらないことがあたりまえすぎるくらいの相手が
まるで冗談のように電話口に声をのぞかせる。

その幼い口調に主人公はたじろぐ。

ほんとうに時間があともどりしたかのように
自分が少年時代だったころの親友の若い声が耳のそばで
聞こえてくるのだ。

甘くて酸っぱいというよりは痛いぐらいの
主人公が過ごした過去の時間とだけつながっている
ふしぎな電話ボックス。

いつか見た真夜中のドラマの印象的なシーンが
いまもちょっと胸を過るぐらいの残像になって
時折思い出す事がある。

見続けていると中年のおじさんである主人公の男の人の
いまの時間を起点にしているのか、
彼の少年の瞬間を切り抜いた
過去の時間なのかどちらなのかわからなくなる。
そんなブラウン管の前でちょっとちがうレールの上に
乗っかかったような時間を体感していた。

そのストーリーのなかのどこかに棲んでしまいたいほど
感情がおいてきぼりになったのではないけれど
ふとわたしはそのドラマをみながら並行して
想像していたことがある。

ちいさいとき学校帰りによくした
うしろむきに歩くっていう遊びのことを。

はじめはけっこう愉しいのだけれど
うしろむきに歩くあの遊びはどんどん
歩をすすめるたびに不安になってくる。
こわさがどんどん増してゆく。

進む方向はあしたなのに視線はきのうという
その矛盾のとまどいのなかに居続けているせいなのだろうか。

きっとその主人公もうしろ歩きを酸っぱさと甘さのあわいで
楽しみながらあっちの時間を生きていたんだろうなと思ったら
そのラストシーンは知らないままでいたいなぁと思って
わたしは真夜中過ぎのチャンネルのボタンをぱちんと消した。

あまくてあやうい公衆電話ボックスの扉を
うっかり開けてしまったとしても、大丈夫?

いつだって過去と現在と未来と。

きっと、どこもどこでどこへもつながっている。

       
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