その四十








 






 







 

はらったり とめてははねて みじかく笑う

こういう季節。
窓を容易に開けられない
空気がひとところに留まり続けているような
そんな季節になると
ふっと鼻先あたりに書道室の匂いが甦る。

いつも墨の匂いが漂っていて
ひとのふるまいもおしゃべりも
物静かであることをしらずに強いられる
そんな時間がちょっと好きだった。

古梅園で買ってもらった墨にはじめて触れる時の
冷たくて打ち解けられない鋼のような質感。
あたらしい道具を手にするときの緊張感は
そのまま距離感に通じるものがあって
わたしはその長さを飽きるまで短くしようと試みる。

すずりの広いところを岡といいます。
そして深く凹んだ場所を池といいます。

きらびやかで年老いても華やいでいる
その女の先生のことばで憶えているのは
いくつかのお説教とすずりの名称。

わたしははじめてゆびが知るその梅の印を持った墨を
おずおずと岡から池へと運ばせる。
池からすこしの水を運んできて
岡でたいせつにもうひとつの墨をこしらえるように
墨をする。

どちらかというとくり返すことが大好きなわたしは、
墨をすることだけに夢中になる。
そして気がつくと虜になってる。
こさえた墨はゆっくりと池へとしずませて
またもういちど岡へと預けるように墨の色を
調整してゆく。

<はなやぎ>先生はマイクの声でおっしゃった。
気持が落ち着くまで墨をすり続けなさいと。
墨の色ではなくって、じぶんのこころを
落ち着けるための作業であることを教えてくれる。

やめたくないな、ずっと続けていたい。
その想いが沸騰点に達するまでわたしはそれをやり続ける。

そして濃すぎるほどの墨で半紙に刻んだ。

あの頃、写した四行詩のことをふと思い出した。

<蟻>と<蝶>と<羽>と<ヨット>と
息のようなやわらかな発見のような、<ああ>という
つぶやきの入った三好達治の詩を書いた。

どうしてなのかわからないけれど
そのときわたしはふわっとこころが弾けた。
暴れてもいいよといわれれば、
遠慮なくそうしたくなるぐらいに。

きっとこの詩を墨で刻んだせいなんだろうと思う。
目の前の池がたちまち海になって
夢のなかで溺れずに泳いでいるときのような
そんな奇妙な感覚におそわれた。

ことばがもし魔法を持っているのなら
もうこの際それならそれでずっと解けない魔法で
いてくれたらどんなにいいだろう。
17歳の鬱屈した日々のわたしはそんなおそろしいことをのぞんだ。
そして年月を重ねた今ふたたび同じ詩と邂逅したとき
その思いに半分足をつっこんだままでいるわたしを発見した。

なにひとつ変わってない、じゃないか。

苦笑のちやるせなく晴れたがっているこころは
ほんとうに厄介者だ。

       
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