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花
の
名
を
教
え
て
く
れ
る
夢
の
ま
ん
な
か
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どこまでも ぼくはあなたで あなたはぼくで
どんどんどんどん見ようとする対象を
限界ぎりぎりに近付けてみると
形ははじめからなかったかのように
そこに残されるのは色だけになる。
輪郭もあやふやな曖昧な形。
でもその形が溶けてゆく瞬間がここちいい。
長い年月、絵を描くことに捧げてきたおんなの人が
いつかテレビの中で
<形はすなわち色です>と断言されている発言を聞いた時
そのとき気持よく腑におちたわけではなかったのに。
今はそのことがよくわかる。
ピンぼけという現象を意図的に施すと
こんなふうな写真になるんだなという
一冊の花の写真集にであった。
偶然を装ったような必然に騙されたような
ページのつらなり。
原色ににじむ、朝顔やチューリップ。
そこには花の姿がもう花であることを
気づかせないように佇んでいる。
なにも気づかせないことで解き放たれた風を運ぶように
そこにただただ色として存在している。
無防備に写されているのにあからさまではなく
均衡を保っている写真をみていると。
よく知っているはずの花のかんばせが
妖しくぼやけてゆく。
そして輪郭が薄らいでゆくと花におんなのひとを
たとえるイメージのこともしだいに揺らいでゆく。
花であってもまた別の生き物であっても。
おとこであってもおんなであっても
かまわないぐらいただそこにある花として。
そんな写真にこころ奪われていると
<わたしは>という主語が途端に邪魔になってくることに
気づいた。
仮に<きょうぼくは、>と綴る想いで
いちにちを暮らせたら、わたしを取り巻く世界のアングルが
すこし愉快になるかもしれない。
と、遊び道具のひとつのようにそれを思いついた。
傷つくことの意味も越えて
戸惑うことすらも俯瞰して明るく忘れてみたくなったとき。
こころのどっかにある
ブレーカーを故意におろして
ぶしつけのまんま
<きょうぼくは、>と、そんなさかしまないちにちを
過ごしてみたい。
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