その四九




 






 















 

遠雷を 奏でるような セピアの音色

そこに鞄がひとつあるだけで
なにかを物語ってる感じがするときがある。

まだ誰のものでもないデパート売り場にある
さらっぴんの鞄は、違うけれど
確実に誰かのものである鞄には
ずっと見ていたいようなそんな魅力を感じる。

地下鉄に乗っていて向かい側に座る
見ず知らずの人の持っていた鞄は
革がいい感じでくたびれていて
無数の傷もしぜんな味となっているような
持ち主の見えない時間を表現している
すてきなものだった。

そういう鞄に出合い頭してしまうと
外から眺めているだけでは測り知れないものが
そこには詰められているような気がして
たくさんのことを想像してみたくなる。

たとえば映画の中に登場する鞄は
きっと私ならそれはどう転がっても
商売道具にしないだろうなという物騒なものが
入っていたりするのだ。
いのちに関わる重大なアイテムが詰められていて
スクリーンの中から私は目が離せなくなる。

主人公たちは、たいてい鞄ひとつが全財産で
それ以外のものは、必要でないものらしいと相場が
決まっているから、私はストイックな彼らの生活に
ひとしきり憧れるのだと思う。

まったくじぶんと真逆の人生を歩んでいる
フィクションの中の人々は
いつだって、憧憬の対象だ。

20歳になりかけの頃だったと思う。
ある陶芸家の人の個展に立ち寄った帰りだった。
帆布の鞄を橋の上に置いたまま彼は自分の個展会場に
忘れものを取りに帰っているところだった。
その鞄の持ち主の人を私達はそこで待っていた。
それは長い年月をかけて愛用していることを物語る
洗い晒された雰囲気のある鞄だった。

時折背伸びして、遠くを見渡すようにしたりして、
なかなか来ないねぇと彼の話をしながら時間を
過ごしていた、その時。
女の人は煙草を吸ってもいい?と私に聞いた後で
肩から下げていた彼とおそろいの鞄を
とてもさりげなくまだ主人の現れない帆布の鞄の上に
どさっと置いた。
どちらも同じ時間だけ使い古されていることが
ありありとわかるふたつの鞄は
互いにやわらかく折り重なってそこにあった。

たったそれだけのことなのに私はそれを見た時、
ふたりにとってかけがえのない時間みたいなものが
そこに漂っている気がしてならなかった。

妙な言い方だけれど。
大切な誰かと共に過ごしてきた鞄っていうものは
侮れないなとこころから思ったのだ。

年月を蓄えて愛でられてきた物達は
自分の知らない時間ばかりで
構成されているのだということも同時に憶えた。

わたしにはそういう付きあい方をした鞄はまだないけれど。
でも、これからじっくりと時計の針が重なるような
とっておきの入れ物がみつかるといいな
と、ちいさな電車に揺られながら思っていた。

       
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