その四二六

 

 







 






 


























































 

いまふいに 香ったような 聞こえたような

 いいことと、ちょっとしゃがんでしまいそうなことは、同時にやってくるらしく。そんなときは、なんとなく本屋さんに行ってみようと、足がそちらに向いてしまう。
 前からほしいなって思っていたのに、手にする機会を逃し続けていた創刊号『つるとはな』を買う。
 本屋で本を選んでいる時は、むかしからそわそわというのか、もやもやというのか、妙に胸騒ぎのする場所なので、いつもそれがほんとうにほしかったものなのかわからなくなる。
 時間の感覚もおぼろになってしまうあの空間はいつもなんなんだろうと思いながら、それでもそこがなくなってしまったら、ひどく悲しくなるんだろうなっていう予感だけはたっぷりあって。

 夜になって、『つるとはな』のページをめくる。
 ページをめくろうとしたら、料理家のホルトハウス房子さんが、ご主人とご一緒にキッチンのテーブルで、珈琲を淹れ終るまでをじっとおふたりで見守っていらっしゃる写真。
 その下には、ことばが6つほど並んでる。

 なぞめいていて好きだなって思いながら、やっとページをめくる。『つるとはな』って面白いタイトルだなって思っていたので、ページのどこかにそんな手がかりがみつかるかなって思いながらめくっていたら。最後のページで、「私たちは、名前を持っている」という映画評論家の秦早穂子さんのエッセイにたどり着く。

年をどれだけ重ねても、無名でも、<おばあちゃん>
と<一括して呼ばれる名無しの存在ではない>と。
 そこにこの雑誌の題名としての根っこがあったことに、
気づかされて背筋がぴんとなる。
よく名前があるとか名前がないとかという言い方を巷で聞くしわたしもいつもやぶれかぶれになったときそんな言い方をしてしまうけれど。どんな人も生まれた時に授けられた名前とともに生きていくのよって、諭された気持ちになる。
 最後のページに掲載された「ブランケット」という松家仁之さんの小説を読み終えた後、ふいに混んでいない雑踏をすれちがうひととひと。そんな光景がふと浮かんで消えた

       
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