その四二七

 

 





 
穿




 




























































 

二の腕を さする仕草が こどものようで

 この間、久しぶりに手紙を書いた。便箋を選びながらこういう、ちょっと浮き足立つこころのおさまりぐあいに、戸惑いながら、冒険しないレターセットを選ぶ。

 手紙はつくづく、相手のことを思う行為だけれど、ほとんどじぶんのために書いているものなんだなと、書き終えてみてそんなことを思っていた。
 文字を綴るってことも久しくしていないようで、緊張しているいつもの指とすこし違う筆圧を感じながら。

 5月頃のこと。とある歌人の方のツイッターを覗いていたら、偶然にじぶんの名前に遭遇したことがあった。
 連絡先を探していますという、尋ね人されていることを知って、驚きつつもありがたくて。
 10年以上前に知り合った方だったので、いろいろと思案しているなかで、ようやくその尋ね人ツイートから1か月後ぐらいに連絡がとれた。

 このサイバー空間で、ひととひとが出会うのは簡単そうなのに、わらってしまうぐらいけっこう難しいことを知る。
 そこにいるのはわかっているのに、うまくつながらないことの連続で。こういうもどかしさって、もしかしたら、はじめてのことなのかもしれないと思う。
 それよりもなによりも、いつもなにかを探しているのは、じぶんだと思っていたから、誰かにそれも憧れだった歌人の方が、ツイッターの中で呼びかけてくださっていることが、つよくこころにずしんと来た。

 日々はなにで成り立っているんだろうと、そんな思いにふたたび駆られて。こういうちいさすぎる欠片みたいなものが、ときには忘れられたり、遠くにまぎれたりしながら、つみかさなってゆくものなのかななんて思ったりして。
 便箋に切手を貼る時のあの、さいごの仕上げの儀式のようなゆびの動きやふるえもふくめて、ぜんぶが今日という日だったんだなと、時折庇にあたる雨の音を聞いていた。

       
TOP